エクスキューズ・ミー

「言い訳」をテーマに書いています。

「視力」への言い訳

 本当にそれが原因なのかは分からないけれど、「ドラえもん」を読んでいたから視力が衰えた、ということにしている。

 生まれて初めて読んだ漫画が「ドラえもん」だった。漫画の読み方なんて言うと大袈裟かもしれないけれど、読み方も楽しみ方も教えて貰ったような気がする。

 歯を磨いて布団に入る時にこっそり漫画を忍ばせて、小さな明かりの中で読んでいた。揃えた単行本は繰り返し読んでいたけれど、残念ながら内容のほとんどは覚えていない。ただ、楽しかったという気持ちは、漫画を読めるくらいの小さな明かりのように胸に灯っているように思う。そう、祈りたい。

 眼鏡を掛けているだけで「のび太」と呼ばれるような時代だった。悪意のないからかいで、僕はのび太が嫌いじゃなかったし、幸いにも僕の世界にジャイアンはいなかった。

 ジャイアンはいなかったけれど、ドラえもんもいないしタケコプターもない世界だ。届かない未来をすっかり追い越して、僕はこの世界を生きている。

 眼鏡を外すと世界中がぼやけて、自分の輪郭も心ごとあやふやになるような気がする。眼鏡はツールであり、世界に立ち向かうためのひとつの装備品だ。何も身につけずに溶けてしまった方がいいのだろうか……、そう思う夜もあるけれど、とりあえず僕の日常は明日も続くらしい。

 漫画を読んで視力が下がった。失ったものを嘆きながら、取り返しのつかない日々は続いていく。今日手に入れた新しい眼鏡は度が強くて、世界の輪郭の明るさにくらくらする。

 夜空にはオリオン座が輝いていて、冬が来ることを教えてくれる。自由に飛べはしないけれど、手を振ることはできるさ。眠れない夜にベランダから空を見上げたとき、駆けていく少年はきっと笑っている。

 

「正しさ」への言い訳

 正しさを武器にしてはいけない。

 そんな言葉を聞いたところで、それじゃあ何を武器にして戦おうか?
「戦う」という前提が間違っています、とか?

 それならば言い換えましょう。何を盾にして守ろうか?
 何かを守るために、何を使おうか?

 正しさと正しさが衝突して世界が終わるとして、それを嘆くのも笑うのも自由です。悲しむのも怒るのも自由です。
 何かを失って正しさに気づいたところで、その瞬間の正しさは永遠に失われてしまいます。失われた正しさをかき集めて、わたしは今日も信号が青に変わるのを待っています。

 正しさを武器にして、わたしは人を殴ります。
 正しさを盾にして、わたしは人を守ります。
 正しさに怯えて、わたしはディスプレイを閉じます。
 誰かが決めたルールを守って、破って。
 自分で決めたルールを破って、守って。
 知らない振りをして間違えて。知らないままで間違えて。間違えたことに気づかなくて。間違えて、知って、その上で破り続けて。
 正しくあろうとするほどに、狂っていくわたしです。

 正しさを武器にしてはいけない。
 正しさを盾にしてはいけない。
 正しさは正しく使われるべき、ですか?
 正しさを正しく扱う術を、ご存知ならば教えてください。

 正気を保てぬ夜の中、正解を求めています。

 いや、そんなものよりも。
 正しくない世界を生きていく不正解を求めています。

「数字」への言い訳

 零から九、と書くと分かりにくい。0~9、その組み合わせで世界は造られている、なんてことを言う人がいる。
 楽しくない意見だ、と思いながらも考えてしまう。日常でさえ数字ばかりだと気付いてしまう。

 数字が嫌いなわけではない。むしろ、分かりやすく表せるぶん気が楽になる、と思うことの方が多いかもしれない。しかし時には残酷に、己の徒労を思い知らされたりもする。数字自体に悪意などというものはないのに、人間の心はそれに何かしら感情のようなものを見つけてしまうことがある。

 数字を見ている時、私は私を見ているのかもしれない、と思った。たとえば時計を見る時に、針の示す数字を見るのと同時に、自分がそれを認識して何をするべきなのかを考えているのだ。成績表や給与明細、降水確率や果汁のパーセンテージもすべて、それを知って自分がどうするべきかという指針になっている気がする。数字を見ること自体はスタートで、テストの点数がどれだけ悪くても人生は続く。

 人間の能力もすべて数値化できればいいのに、などと思ったこともあるけれど、この世界はロールプレイングゲームではないからこそ楽しくて悲しい。不確定要素に満ちたバクだらけの世界の中では、目に見える数字をヒントに、目に見えないスキルを伸ばしていくことが必要なのだと思う。たとえば感性や感情といったものを、ゲームオーバーになる瞬間まで。
 感情も勘定も、生きるためには必要だというお話でした。

「嘘」への言い訳

 誰かが今日も嘘を吐きます。私は今日も嘘を吐きます。

 嘘吐きが泥棒のはじまりなら、世界は執行猶予中です。その間にも新しい噓吐きは産声を上げて、言葉を覚えて、誰かの肩を叩きます。

「フィクションです、創作です、作り話です、ネタです、例え話です。傷つけるつもりも、困らせるつもりもございません。許してください」
 嘘が嘘だと暴かれたとき、あるひとは許しを請いました。
「騙されるあなたが悪いんです」
 嘘が嘘だと暴かれたとき、あるひとは笑顔で言いました。
「本当なんです。本当なんです」
 嘘が嘘だと暴かれたとき、あるひとは必死にごまかそうとしました。
 彼らは、許されたり、罵られたり、笑われたりします。叱られたり、憐れまれたり、見放されたりします。それが嘘という罪への罰なのか、褒美なのか、彼らにさえ解りません。

 また誰かが嘘を吐きます。
「猶予期間はとうに過ぎていて、世界は見えない檻の中なのさ」
 誰かがそれに応えます。
「それなら僕はもっと嘘を重ねるよ。もっときみを困らせるよ」
「それは楽しそうだね。僕もそうするよ」

 嘘が重なって、重なって、事実と混ざって歴史が産まれて。重ねて、重ねて、未来になっていきます。
 噓吐きが世界を創ったのなら、世界の終わりは言葉を失うことです。言葉を失いますか? それとも騙し続けますか?

 誰かが今日も嘘を吐きます。私は今日も嘘を吐きます。虚構のような未来を求めて、血のように真っ赤な嘘を吐きます。
 

「つまらない話」への言い訳

「つまらない話なんだけどさぁ」から始まる話に面白いオチをつけなさい。
「面白い話をするよ」から始まる話に面白いオチをつけなさい。

 前者の方が圧倒的に有利だろう……。後者は余程の自信があるのか、愚かなのか。
 そして今回は、そのどちらでも無い誰かについてのお話。


「生きていて楽しいですか?」
 頭の中の誰かは唐突に話しかけてくる。
「楽しくなかったら生きてちゃ駄目なんですか!?」
 頭の中の私は応える。
 こんなことを日常の中で繰り返している。日常の中で繰り返しているけれど、私の頭の中でのことなので、現実の誰にも知られることは無い。


「生きていて楽しいですか?」と、本当は誰かに言われたいのだ。現実世界の誰かに。
「楽しくなかったら生きてちゃ駄目なんですか!?」と、本当は誰かに言いたいのだ。
 そこまで口にして、会話がどう続いていくのか。自分の望むような流れが生まれるのか。
 とりあえず、今まで生きてきてそのようなことは一度も無かった。それはそうだ、台本の無い即興漫才のようなやり取りが出来る訳が無い。
 そのストレスをぶつけるように、霧散させるように、解消するために。好きな言葉をノートやモニターに散りばめて楽しんでみたりする。頭の中の誰かはいつだって望む言葉をくれる。


「面白い話をするよ」と、現実の誰かが私に話しかける。本当に面白い内容なのかは別として、私はきっとそれを楽しく聞くだろう。頭の中の誰かが発する言葉を、現実の誰かはいつだって軽く飛び越えていく。
 飛び越えていく途中や着地の後、私はそこに己の願望を見付ける。そしてまた、ペンを手に取る。


「つまらない話なんだけどさぁ」から始まったこのブログに相応しいのかどうなのか、とりあえずオチはございません。見失った着地点は、未来に出逢う誰かさんと頭の中の誰かさんに託します。では、また。

「何者かになろうとすること」への言い訳

 何になりたいですか?
 神さま、キリン、流れ星、カーペット、キャベツの千切り。
 何にだってなれるんですよ、あなたは。
 何にだってなれるはずなんですよ、わたしは。
 

 と言うような感覚が、感情が、演劇や舞台を観る度に湧いてきます。
 同時に、スポットライトの中で「己ではない何者か」になろうとしている演者たちに圧倒され、敗北感を背負って家路に就くのでした。ああ。
 何者なんだろうね、わたしは。
 何者になりたいんだろうね、わたしは。
 何者であるべきか、などという誰が決めたことでもない思考を巡らせて、あー明日も仕事だし寝なくちゃなー、とかね。


「世界」や「地球」や「日常」などという括りから逃れるために、抜け出すために、ひとは何かを創り出すのか。
 いや、違うと思うのです。
 逃れるためではなく、抜け出すためでもなく、「戦うため」に、ひとは何かを創り出すのだと、そう思いたいのです。


 恥ずかしい過去を綴った日記も、真夜中に書いた散文も、あの子に宛てたラブレターも、いつ終わるかわからない生命のための遺書も、ラジオ番組への投稿も、SNSの140文字も。
 すべては過去と戦うためのものであり、未来へ挑むためのものである。
 そう思いたいので、そういうことにしておきます。


 今夜も幕が上がります。
 照明は豆電球や、月明かりや、カーテン越しのテールランプ。
 音量を落としたテレビや、名を知らない虫の鳴き声をBGMに。
「この世界の主人公はわたしです」、なんて。
 格好つけて口ずさむわたしに、あなたに、願わくは万雷の拍手を。

「音楽」への言い訳

「嗜好品なんです」と彼は言った。最低限の衣食住に必要なもの以外は嗜好品だと、濁った瞳をにっこりと細めて。

 嗜好品、あるいは贅沢品と呼ばれるものがある。煙草や酒類がメジャーなところではあるのだが、前述の彼に則れば音楽もその中に含まれるだろう。
 さて、音楽の話。音楽の話がしたい。

 好きなバンドが解散を発表、ショックを受けたファンが自らの生命を......。残念ながら架空の話ではない。
 裏を返せば、音楽で救える生命もある、ということになるのかも知れない。NO MUSIC NO LIFE、YES MUSIC YES LIFE、といった感じか。

 ただ、思うのは「音楽で他人を救いたい人間」というのは今の世の中にどれくらいいるのだろう、ということだ。いや、商業の話がしたいのでは無い。
 音楽を生業にする人間というのは、自らの手で自らの生命を救っているのではないか。そう思うのだ。
 かつては手の届かないステージでキラキラしていた幻想のようなアイドルでさえ、今の時代では「みんな大変だよね、私たちも大変だよー」という風に見えることがある。聴こえることがある。
 己を鼓舞するついでに、と言うと酷いかもしれないけれど。それで救われる生命が何千、何万もあるのならば、それはとても価値のあることだと思う。
 まぁ、普段からそんな面倒くさいこと考えてないですけどねー。来月はライブに行くから頑張ろー、くらいのもんです。

 人を救う音楽は無いけれど、音楽に救われる人はいる。
 矛盾しているようだけれど、矛盾していないものの方が少ない世の中ですし。ねぇ?


「音楽は嗜好品です。毒にも薬にもなるし、何にもならないこともあります」
 濁った瞳のまま、彼は話し続ける。
「っていう歌詞のサビがサイコーなんですけど、今度一緒にライブ行きませんか?」
 濁った瞳をビー玉のように輝かせて、彼は私に話し続ける。