「何者かになろうとすること」への言い訳
何になりたいですか?
神さま、キリン、流れ星、カーペット、キャベツの千切り。
何にだってなれるんですよ、あなたは。
何にだってなれるはずなんですよ、わたしは。
と言うような感覚が、感情が、演劇や舞台を観る度に湧いてきます。
同時に、スポットライトの中で「己ではない何者か」になろうとしている演者たちに圧倒され、敗北感を背負って家路に就くのでした。ああ。
何者なんだろうね、わたしは。
何者になりたいんだろうね、わたしは。
何者であるべきか、などという誰が決めたことでもない思考を巡らせて、あー明日も仕事だし寝なくちゃなー、とかね。
「世界」や「地球」や「日常」などという括りから逃れるために、抜け出すために、ひとは何かを創り出すのか。
いや、違うと思うのです。
逃れるためではなく、抜け出すためでもなく、「戦うため」に、ひとは何かを創り出すのだと、そう思いたいのです。
恥ずかしい過去を綴った日記も、真夜中に書いた散文も、あの子に宛てたラブレターも、いつ終わるかわからない生命のための遺書も、ラジオ番組への投稿も、SNSの140文字も。
すべては過去と戦うためのものであり、未来へ挑むためのものである。
そう思いたいので、そういうことにしておきます。
今夜も幕が上がります。
照明は豆電球や、月明かりや、カーテン越しのテールランプ。
音量を落としたテレビや、名を知らない虫の鳴き声をBGMに。
「この世界の主人公はわたしです」、なんて。
格好つけて口ずさむわたしに、あなたに、願わくは万雷の拍手を。