エクスキューズ・ミー

「言い訳」をテーマに書いています。

「ハッピーエンド」への言い訳

「生きているだけで素晴らしい!」
 身体中に管を取り付けられた病人にも同じことが言えるのか?
 いや、それでも生きていて欲しい、世界に存在していて欲しい、と望む者がいるのならば、その生命には充分な価値があるのかも知れない。

 というようなことを考えているからお前は駄目なんだよ。と日々己に突っ込んでいる。
 解った振りをして悟ったようなことを言っていればそれなりに見えるだろう。浅はかな考えだ。

 何かに対して是か非かの意見を持つことは当たり前なのだろうか?
 全てを受け容れる、あるいは否定することは出来ないのだろうか?
 またそんなことを言って......お前は何が言いたいんだ、と。気付いた時には遅かった。
 特に無いのだ。無かったのだ。
 何かに対してこうあるべきだ、という意志が。意見が。
 自分はこうありたい、とは思うのだが、それを他人に強要していいものか......と悩んでしまう。
 その結果「決められたことには従うべきだ」という、ごく平凡な意見に落ち着いてしまった。
 法律違反はいけませんよー、なんて。子どもか。

「長所・控え目」「短所・自分の意見を言わない」
 前へ前へと出て行かなければ......と思う日々の中で、この性格は災いでしかない。

 書くことが好きだ。フィクションが好きだ。どんな嘘を吐いても、どんな嘘を書いても、ある程度は許される。実際の人物、団体、事件とは一切関係ありません。犯罪を助長するものではありません。
 しかし、そんな文句を飾るような痛みのある文章を、私は書きたいとは思わない。書きたいとは思わなく、なった。
 さらっと読んで、ちょっとだけ気が紛れるような。
 出来れば、ちょっとだけ嬉しくなるような。
 そんな物語を書きたい。つまらない、予定調和の物語を書きたい。
 誰の為なのだろう、何の為なのだろう。誰のせいなのだろう、何のせいなのだろう。どうして私は私になったのだろう。

 訳が分からないまま綴って、優しく終わる。きっとそれが私の意見なのだろう。
 読んでくれる誰かの為に、綴っている私の為に。ひとつだけの意見。嘘かも知れないけれど。
 人生の結末が幸福なものであればいいね、なんて。

 明日終わるかもしれない世界の中で、世界のことなんてどうでもいい。
 世界のことよりも、音楽や朝ごはんや伸びた爪のことを考えればいい。
 馬鹿みたいに優しく。嘘かも知れないけれど、私は嘘かも知れないけれど。
 書いてしまおう。嘘だって何だって。適わなくたって、叶わなくたって。
 私はハッピーエンドが大好きなのだ。

「左耳」への言い訳

耳に穴をあけると痛い。
痛覚のある生き物にとっては当たり前の感覚だ。
痛いのは嫌だ。なぜなら痛いからだ。

誕生月よりはだいぶ前だった。冬なら空気が乾燥しているぶん都合がいいと聞いたからだった。
耳に穴をあけると決めた。
理由はひとつではないし、思いつく幾つかのうちのどれでもないのかもしれない。
痛いのは嫌だ。痛いのは嫌だ、けれど。
そのときの私は、それをすることによって何者かになることを決めたのだ。もしくは、そのときの私を辞めることを決めたのだ。

耳に穴をあけた。
思ったほど痛みはなかったし、何かが劇的に変わるということもなかった。
けれど、その瞬間から、私は何かを目指し始めたのだ。何かから逃げ始めたのだ。
行き着く先は分からない。一周まわって戻ってくるのかもしれない。
ほうっておけば塞がってしまう小さな穴だ。その小さな穴を、自分の身体ではない何かで埋めるのだ。
今はもう痛みはない。痛みはないけれど、小さな穴はあいたままだ。

さぁ、今日はどうやって埋めようか。
穴のあいた私と、穴だらけの世界と、どう付き合っていこうか。

「擬人化」への言い訳

「擬」という漢字を訓読みすると「擬(もど)き」だ。
そうか、擬人化とは「ひともどき化」なのか……。

人間以外の生き物から電車、果ては文房具まで、今ではありとあらゆる物が擬人化されている。擬人化されていない可能性のある物がぱっと浮かばないくらいだ。

なぜ「擬人化」するのだろう。
「萌え」られるようにするため、というのがあるが、それを更に砕いて言うと「親しみやすくするため」なのかも知れない。
好きな生き物やお気に入りの文房具などを「擬人化」することによって、まるで同じ人間の友人であるかのように思えるのだ。

「擬人化」とは逆に、人間を人間以外の生き物に喩える「動物占い」というものがある。
これは「擬人化」とは目的が違っていて、人間を他の動物に当てはめることで性格をシンプルなものに分けようという試みだ。この場合、人間を動物に喩えて「萌えよう」という目的は無い(基本的には)。

どうやら人間は、人間以外の何かを愛するためにはその「何か」に自ら近づくよりも、その「何か」を自分に近づける生き物であるらしい。

ところで、コスプレについて。
コスプレは自らが憧れている何かになろうとする試みである。
唯一、人間が行う「萌える擬態」だ。
純粋に楽しんでいるであろう人々を「もどき」などと揶揄するのはやめておきたい。

「擬」という漢字に「疑う」という言葉が入っていても、「擬人化」も「擬態(コスプレ)」も愛のある行為であることに疑いの余地は無い。

「風邪」への言い訳

 何かを得るためには何かを差し出さなければいけない。錬金術漫画で知った「等価交換」という決まり事である。
 金銭を得る為に時間を差し出して労働する。時給、日給、月給などの場合は、そのまま等価交換という言葉が当てはまると思う。
 歩合制、となるとまた話は違ってくる。この場合は「成果」と金銭を交換することになる。
 なぜ金の話から始めたかというと、これが現代の社会生活においては基本であると思うからだ。こうして得た金を更に物品や資源と交換することによって我々は暮らしている。
 
 給与を何に遣うかは個々人の自由ではあるのだが、誰だって好きなことに遣いたいと思うのは当たり前だ。服を買う、映画を観る、旅行する、ゲームアプリに課金する……許されるならそうしたい。
 しかし、現実はそう簡単にはいかない。生活するために最低限必要な物資や光熱費、家賃など、黙っていても給与の一部は消えていく。
 
 風邪の話である。
 つらつらと等価交換などという言葉を持ち出して語った全てを放り投げたくなるほどに、一切何の得もしない風邪!
 風邪を引くことによって仕事を休む。休んでも碌に動けないので寝ているしかない。平日の昼が咳をするだけで過ぎていく……。
 病みたくて病む人なんていない、はずだ。ファションで病んでいると言い張る者を私は認めない。誰だって健康体でいることを望んでいる。

 それでも、人は時に風邪を引く。睡眠不足、栄養不足、過労、理由は色々あるだろう。
 しかし、電話で上司に病欠を伝える際にわざとらしく弱々しい声で話してしまうのは共通のものであってほしいと思うのだ。風邪を引くたびにそう思いながら通話ボタンを押している。

 どんなに医療が発達しようとも、手をパァン!と鳴らして病が治る日は永遠に来ないと思う。
 そんな未来がもしも来た場合、我々は風邪と引き換えに何を失うことになるのか……寒気がする。

「聴覚」への言い訳

円滑なコミュニケーション!
……エクスクラメーションマークを付けて勢いを……と思ったが、このテンションでは最後まで書き切れない。無理だ。
生来の人見知り、というのもあるが、今回のテーマはもう一つの大きな問題についてである。

「え?」
聞き返す。
いや、ちゃんと聞こうとしているのだ。「聞く」というよりも「聴く」という感じで。
しかし、何故だろう、相手の発言を耳が捉えてくれない。
聴覚に問題が?
いや、健康診断を受けても受けても正常値なのである。
勤め先が割と賑やかなところなので(機械の作動音など)、そのせいかと思ったのだが……正常値だしなぁ。

しかし、常に聞こえていないのかというと、そういうわけでもない。
深夜、自室にて。
何か音がする……気になって部屋を出る。一階で食洗機が動いていた。あぁ、と納得する。
自室に戻る。
何か音がする……しかも今度は部屋の中で。辺りを見渡して、聞き渡して、気付く。テレビを録画するための機器が唸っていた。あぁ、と納得……できるか!!

イヤホンを着けて音楽を聴けば……と思ってやってみたが、曲と曲の合間に聞こえる食洗機やらレコーダーの作動音。
仕舞いには自分の呼吸音すら耳に不快感を与えるようになる。
(これ、奇妙なストーリーを集めた2時間ドラマで観たことある展開だ……)
そのストーリーの結末を思い出して寒気がしてくる。
(死……!!)

円滑なコミュニケーションに於いては大切な聴覚、独りでいるときには煩わしい聴覚。
それはそうだ、自分以外の「何か」が発する音を聴くための器官なのだから。

ところで、雑音が気になって眠れないのかというと、そんなことはない。
眠くなったら寝てしまう。流石、三大欲求。

それにしても、近頃は耳を塞ぎたくなるような出来事が多いですよね(無理矢理なオチ)。

「傘」への言い訳

梅雨時のような空模様が続いている。
電車を降りてから職場まで、大した距離ではないが歩かなければならない。
小雨なら傘を差さないこともあるけれど、大抵は折りたたみ傘やビニール傘を差して、視線を落として水溜まりを踏まないように歩く。
誰もが当たり前だと思っている「傘を差す」という行為。
私はこれが苦手なのだ。

傘を差して歩く。
傘を差しているはずなのに、職場に着いて自分の肩を見ると濡れている。
風の無い日の雨でもだ。何故だ。
傘が小さいのか……?いや、ごく普通のサイズのものだし……。
ふと、足元に冷たさを感じる。履いているデニムの裾が濡れている。
どういうことだ、何の呪いだ……!
といった風に、傘を差そうが差すまいが濡れるのである。
濡れるのである、じゃないだろう!
どうしてこんな簡単なことが出来ないのか……。

傘を差すことを始めたのはいつからか、全く記憶に無い。
物心がついた頃には「雨の日は傘を差す」ということが身についていたのだろう。
どんな風に傘を差せば濡れずに済むのか……自分で書きながら悲しくなってきた。
「傘の正しい差し方」の授業が義務教育の中にあったのなら、私だって……。どこかで講義があるのなら行く。あるのか。無いか。

傘の使い方が下手なことについて、どんな言い訳をすれば許されるのだろう。
思いつかないので、傘寿までにはなんとかしたい。
降りしきる中を、今日も濡れて歩こう。

「誕生日」への言い訳

誕生日というものに違和感を覚えたのはいつからだろう。
そもそもはカレンダーへの疑問だった。どうして一年は十二ヶ月なのか、一週間は七日なのか……。
調べれば答えは出るのだが、自分の求めているものはそれではなかった。
というか、答え(のようなもの)を誰かに差し出されたくなかったのだ。

母体から産まれる瞬間に決まる誕生日。
自らの意思で決めることが出来ない数字。
そんなものは幾らでもあるけれど、一年に一度、その日がやって来る度にもやもやとした疑念は浮かぶ。

深く考え過ぎているだけだ。あるいは的外れなことを考えているだけだ。
既に決まっていて、それに不都合が無ければそのまま受け入れてしまえばいい。
そんな数字なんかよりも、もっと疑うべきことはある。
一年が何ヶ月だろうと、一日が何時間だろうと、生きているのは今、この瞬間だ。

そんな風に思えたら楽なのだろうけれど……疑うばかりで、そこから何かを見つけないまま纏めようとしてしまう。
まぁ、誕生日は基本的に嬉しい日だ。
だから、今回は楽しく終わらせよう。

誰かの誕生日には、おめでとう。
自分の誕生日には、ありがとう。
蝋燭を吹き消して、クラッカーを鳴らして。
生きてきたことに、生きていることに、生まれてくれたことに、出逢えたことに、最大の感謝を。